今日は「神様」と「仏様」のお話。
以前のブログでも申しましたように私は宗教の専門家ではありませんので、このブログを読み「この不届者!そんなことをいっておると天罰(仏罰)がくだるぞ」と思われた方はどうぞご容赦くださいませ。おじさんの「戯言」として読んでください。
私は、いわゆる無宗教です。何か困った時に「神様、仏様、お願いですから...」と手を合わせるご都合主義の凡人です...も以前にも告白いたしました。
ここから本題です。私はどちらかというと「仏様」派(仏教派)だと思います。「仏様」は人間です。人間だれしも心の中に「仏性」が宿り、それが完成され悟りを開き、解脱したのが「仏様」です。ほぼ100%そうなることがないので、「神様」のように遠い存在に思えますが、それでも元は「人間」です。「煩悩」を抱え、「四苦八苦」の苦しみを分かち合い、苦悩の末到達するのが「仏様」です。その苦悩を共有しているからこそ、私は「仏様」に親しみを感じ、癒される感覚を持つのだと思います。いつも傍らにいらっしゃいます。心の弱い人間にも手を差し伸べてくれます。だからこその、親鸞の『悪人正機説』ですね。
それに対し、「神様」というのは私には一種の畏怖を感じる絶対的な存在です。特に「一神教」であるキリスト教やイスラム教等における「神様」は絶対です。「主の名をみだりに唱えてはならない」はあの有名なモーゼの十戒の一つですが、英語ニュースで緊急事態に欧米人が "Oh, my God!"と言わずに "Oh, my Gosh!"ときちんと言い換えて叫んでいるのを耳にしました。名前でさえ、「正しく唱えなくてはいけない」のです。「神様」はすべてを決定します。あの有名な旧約聖書に出てくる『ノアの箱舟』『ヨブ記』や『ソドムやゴモラ』を見ても容赦ありません。当然神様が決めた戒律も絶対です。100%守らなくては(守れるよう努力しないと)いけません。きっと私なら「即、破門!」と言われてしまいそうです。だからこそ、「神様」は気高い、尊い存在であるのでしょう。もちろん、こんな私が唯一「神様」に親和性を感じるのは、「イエス・キリスト」様の存在です。それまでの時代にはなかった人への愛(アガペ)が第一と唱え、自ら運命に逆らうことなく磔刑となった彼の存在は仏様の「仏性」と通ずることはないでしょうか。(飛躍しすぎていたら申し訳ありません)
拝む時も違います。仏教の「手を合わせる」のは自分の弱さをさらけ出しすべてを仏様に委ねる、つまり「仏様にすがる」こと、一方キリスト教で「指を組む」(イスラム教では両手をあげていますが)のは自分の弱さを申告し神様の審判を仰ぐことに感じられます。「神様にすがる」、違和感がありますよね。叱られていしまいそうです。
そんなわけで日本語でには「仏顔」「仏様のような人」「仏の顔も三度まで」...といった表現があるのでは、と思います。これを「神」に置き換えることはできません。「サッカーの神様」みたいな表現はあるかもしれませんが、あくまで比喩的に「一番すごい存在」という意味でしかありません。「仏様」のもつニュアンスとは違います。
そんな私ですが、両親の葬式は仏教で行いました。自分の結婚式はキリスト教式で挙げました。宗教的に節操のない人間です。今回のお話も、宗教に素人の私が、何の根拠もなくかってに考えた「妄想」かもしれません。ただ、人間が生涯生きていく上で、自分の中で揺らぎが大きくなった時、心のどこかに拠り所を求めることは大切で、その出発点が「宗教」だと思います。科学では解決できない「心の闇」に光を与えてくれるのが「宗教」だと思います。無宗教である分、素直に色々な考えを受け止めるアンテナは持っているつもりです。勉強を続けたいと思います。
でも、やはり私は(自認)「仏教」派。毎朝、手を合わせ、『般若心経』を唱え、心の穢れを祓おうとしています。小学校以来、持つことのなかった毛筆(筆ペン)で「写経」も時々します。『般若心経』の智慧の「六波羅蜜」の6つの徳目の中で一番私に必要な(また実践可能な)「布施」を修行の第一段階として実践しています。普段からの雑用も「させられている」「やってやってる」というのでなく「させていただいている」んだと思いつつ日々過ごしています。カミさんも喜びます。
お経など、若い頃は葬式のイメージしかなくいやでしたが、最近は生活方法の智慧として考えるようになりました。やはり、齢ですかね。
合掌
