本日は、授業における「主体的・対話的学び」についてのお話。
ざっくりとしては生徒が課題を自ら発見し、解決方法を考え、さらには自分の考えを皆で持ち寄り、さらに高見のよりよい解決方法を生み出していく...そんなイメージだと思います。実際の授業では、ある課題に関して机を4~6人で寄せて、(現在はタブレットを手にしていることも多いですが)話し合い、しばらくして各グループごとに発表して教員がコメントしながらまとめる...といった感じでしょうか。研究授業や相互の授業観察に伺うとだいたいこのパターンです。
私が驚くのは、毎回このパターンの授業が基本ということです。「主体的・対話的学び」=机を寄せて話し合うこと、ではないはずです。幼稚園~小学校~中学校~高校と、初級から上級に至るまで、教育内容や量、みんな違います。幼稚園~小学校あたりの国語・社会までならイメージ通りでいいと思います。ただ、中学校~高校のレベル、いわゆる「児童」から「生徒」になったら、「主体的・対話的学び」は通常の授業ではほとんど不可能なくらい中身の濃いものになるはず。お互い、刺激しあい、学びあうには土台となる基礎知識がよほど確固たるものでなくてはいけません。英語の基礎知識や数学の公式の理解に「主体的・対話的学び」は不要です。というか、話し合う内容ではありません。基礎のハードルの乗り越えてこそ高学年での「主体的・対話的学び」が可能です。たまに、生徒同士教えあうのはいいと思いますし、授業のリズムもできますが、それは「主体的・対話的学び」ではなく、あくまで授業の「小技」の一つです。本気で「主体的・対話的学び」を求めるなら、まずは「本物の知識」を生徒に教えるべきです。教員は限られた時間の中でその基礎知識をいかにわかりやすく教えるか、生徒の興味が持続するように教えるかに神経を集中すべきです。「知らないことがわかることは本当におもしろい、嬉しい」という「学び」の楽しさを教えることを優先させた方が本物の「主体的・対話的学び」に確実につながると思います。「学び」の面白さを覚えた生徒は、別に授業でしなくても自発的に周囲の仲間と「主体的・対話的学び」を始めるものです。大学の研究室はそうでしょう?形態だけまねても、時間ばかりかかってしまいます。タイパが悪いんです。「主体」「対話」を授業で意識することは当然ですが、毎日の授業で実践することではないと思います。
私は「学び」の楽しさがすべての教育の原点だと信じて授業をしています。
