おじさんの戯言 猫付き

英語好き、猫好きのおじさんの戯言

「ルッキズム」と息苦しさ

今日は、ルッキズムについてのお話。

 最近、きれいな女優さんを見て「ほんとに綺麗だね」とかかわいいアイドルが歌うの見て「可愛いね」と言いづらいと感じたことありませんか?ここ何年かで男女差別への意識が高まり男女の区別をも否定する動きがあります。その動きの一端が今はやりの「ルッキズム」です。外見の美醜で判断するというアレです。

(国際NGOプラン・インターナショナル HPより引用)

ルッキズム(lookism)とは
ルッキズム」とは、外見や身体的特徴に基づいて他者を差別する思想や社会現象を意味します。この言葉は、1970年代にアメリカのメディアによって作られた造語で、外見・容姿を意味する「look」と、主義をあらわす「ism」を組み合わせてできたものです。日本では「外見至上主義」と訳されることが多く、最近になってよく使われるようになりました。

 しかし、注意してください。大切なのは、上の定義の「外見や身体的特徴に基づいて他者を差別する」の部分です。「外見や身体的特徴」を「美しい」「かわいい」と形容してはいけないとは言っていないのです。最近ではその特徴を言うのさえはばかられる感じがするのです。ある英語の参考書の著者が "Mary is a pretty girl."という例文を使うかどうか最近迷っているという記述があり、思わず笑ってしまいました。私も、いつも英語の形容詞の限定用法と叙述用法を説明するときに、Mary is a pretty girl./Mary is pretty.の例文を必ず使うので。でもこれが差別ですか?ルッキズムですか?ただ、「かわいい」と見た目を形容しているだけです。この程度は社会として許容してもらいたいものです。この一線を越えたら「ことば狩り」です。それでは、美しくなければ「ブ〇」と形容していいのか、と言われてしまいそうですが、それは男女差別の問題ではなく人間としてのマナーの問題です。小さな子どもが、人前でわざわざ下品な言葉を連発しては大人に叱られるレベルの問題です。礼儀作法の問題で、男女差別ではありません。行き過ぎた気遣いはかえって人間関係を息苦しいものに変えます。二重尊敬語のようなものです。そんなことばかりしているから、幼稚園の学芸会に白雪姫が女の子全員なんてことにもなるのです。(私からすると、全員白雪姫にすること自体、それを良しとする大人の心の底に「ルッキズム」が潜んでいると思います)

 世の中の「差」「違い」をすべて「差別」とするなら、「ルッキズム」に限らないでしょう。「能力主義」だってある意味、能力による差別です。そういう意識があるからこそ、小学校の運動会で『かけっこ』は「一番」と「びり」がはっきりするからやらない、早い子、遅い子にわけて走らせる...そんなばかなことが起こるのです。私の親などは、自分の息子がパン食い競争でもたついているのを見て大笑いしていました。まさか、自分の息子のことを笑っているとは知らないおばさんににらまれたと言っていましたが。運動会の時だけヒーローになる腕白坊主など子どもの頃いたでしょう?それでいいじゃないですか。まさか大学入試で点数の高い人間だけが合格する...それも差別?もう少しだけ肩の力を抜きませんか。それでなくても生きづらい世の中ですから。おおらかに生きましょうよ。

 そんなことで大騒ぎしている一方で、少数派の子どもたちがが苦しんでいる「いじめ」は多くの大人たちは目を背け見ないようにしている。大手を振って叩けることは、しつこく叩く、見たくない部分はみんなでなかったように振る舞う。ルッキズム」といった風潮に、違和感を感じる「おじさんの戯言」でした。飛躍しすぎかな?