本日は「挨拶」のお話。
「挨拶をしなくてはいけないのか」でひとところSNS上で盛り上がっていましたが、申し訳ないけれど、ここまで白・黒のデジタルで考えなくてはいけなくなったのか...とため息が出ます。一言、「義務ではありません」。法律に書いてありませんから。でも、法律に書かれていないから「(ひんしゅくを買っても)やってもいい」「(めんどうだから)やらなくてもいい」では、この世の中ギスギスと摩擦音だらけの社会になってしまいます。最近の立花孝志氏や「翼の党」の選挙活動での行動を見れば明らかです。「社会」は2人以上の人間が存在すれば生まれます。そこには「個」と「他」が存在します。そして両者が公平に暮らすために法律が生まれます。今、話題としている「挨拶」は、公平にではなくお互い幸福に暮らすための潤滑油です。あった方がいいのです。山歩きをする人はご存じと思いますが、道すがら出会ったひとには「こんにちは」とほぼ必ず挨拶します。その一言で爽やかな風が吹くのです。疲れた身体がすこし癒された気分になるのです。外国でお土産屋さんに入ってごらんなさい。必ずと言っていいほど、挨拶をしてくれますし、こちらから挨拶すればそこから会話が始まり、貴重な体験も生まれるのです。「挨拶は必要か?」と思っている人たちへ。だまされたつもりで「挨拶」をしてごらんなさい。まずはひと月。きっと何かが生まれます、あなたの人生に変化が現れます。
また、今回こんな風にバズって賛否両論が行き乱れたのには理由があります。現代の若者は上からモノを言われるのを嫌います。必ず、理由は?と聞き返します。ですから「挨拶しろ!」と言われると反撥したくなるんでしょうね。あとはもの言いでしょうね。「挨拶はしなくてはいけないのか」には反語的な含意が感じられるます。「~しなくてはいけないのか」=「いやしなくてもいいだろう」と言うことです。テレビのアウンサーがニュースの最後にイタチの最後っ屁(下品で失礼)がごとく「それでいいんでしょうか(いや、いけない!)」と締めますよね、あれです。そんな風に言われると、普段からモラルの低下でどこに文句言っていいか不満をもっている人が「何を~」と反撥するのです。人間は作用・反作用で、押されれば押し返す、引っ張ればこちらも引っ張り返す、それが性分です。そして最終的に(匿名であることも関係して)罵りあいバトルとなるのです。「挨拶」に関しては、数年前の投稿がバズった例がありますが、さらに進んでいます。ラーメン店で20代くらいの女性客が、店を出る前に厨房に向かって大きな声で「ごちそうさまでした」と言ったのは行儀が悪い...というもの。こうなると「挨拶はしなくてもよい」ではなく「挨拶はするな」と言っているのです。自分が「挨拶」しないばかりか、「挨拶」する人を否定しているのです。何が下品かもうわかりません。きっと、家庭で幼いころから食事の前に「いただきます」「ごちそうさま」(「ありがとう」、「ごめんなさい」も同様)もすることを教わらなかったのでしょうね。
さらに、こちらが引いたらさらに押してくる例も出てきます。列車のリクライニングシートを下げるとき、後ろの人に挨拶する。大多数の人がすること。声を変えないまでも顔を見て会釈はします。会釈された方も、無言でにっこり「挨拶」を返します。すると次のような人が登場します。
Merkmal フリーライター 出島 造氏記事より(2023.2.2)
(前略)...もっとも、一声かけることを「マナー」とする人が絶対多数というわけでもないようだ。2018年には実業家の堀江貴文さんが、「席を倒していいですか?」と聞かれて「ウゼェ。勝手に倒せや。そうやって何でもかんでも保険かけようとすんなボケ」と不快感を表すツイートをし、賛否両論を呼んだことがある。「集中している時に声をかけられると嫌なので、勝手に倒してほしい」というのが、堀江さんの意見だ。...
(後略)
申し訳ないけれど、このような価値観の人と同じ社会で暮らしたくありません。「挨拶」は感謝、謙虚、他者への思いやりといった日本人の美徳のすべての元となっている価値観です。NHKの人気番組の『チコちゃんに叱られる』の「チコちゃん」じゃないですけど、「ぼーと生きてんじゃね~よ」です。
結局のところ「挨拶」に抵抗する人は、「形式だけの挨拶なんて不要」ということを言いたいのかもしれません。が、「形式だけの挨拶」は「挨拶」とは言いません。「戯言の挨拶」を根拠に「挨拶」の要不要を論じてはいけません。本質からずれています。リクライニングシートのところで出しましたが言葉では表現しない「挨拶」も存在しますから悪しからず。
繰り返しになります。皆さん、挨拶をしましょう。きっと暖かい世界があなたを優しく包んでくれるでしょう。
