本日は、文化の違いについてのお話。
よく、日本人と西欧人の感覚の違いを「蝉の声」に対する反応を例にあげて述べることがあります。日本人は「蝉の声」を「音楽」、少なくても心地よい、好ましいものとしてとらえ、西欧人(特に米国)は「雑音、騒音」として、好ましくないものとしてとらえる、というものです。だから、日本人は自然を愛でることのできる繊細な文化を持っているというのです。私も、「そうそう、日本人にしか自然の微妙さは理解できないんだ」などと思っていました。でも違うんですね。実は本当に「騒音」であることもあるのです。四国を旅しているときのこと、夏の盛りである寺院の参道を歩いていて「蝉の声」を聴きました。まさに「騒音」でした、信じられないくらいの音量でどのくらいの数の蝉がないているのかわからないくらいの音だったのです。米国では周期的に大量に発生するというのが先日話題になっていました。米国人はこのような「蝉の声」を聴いて「騒音」と判断しているのではないかと思います。自分の文化の中だけでいろいろなことを判断してはいけないんだとつくづく思いました。
こういうのもあります。大学時代、英詩の授業で「古池や蛙飛び込む水の音」という松尾芭蕉の有名な俳句を米国の有名大学の文学専攻の学生が大きな砂漠の真ん中にある湖の中に(ヒキガエルのような)カエルがドボンと飛び込んだという風に解釈した、と話してくれましたがあながち冗談ではなく、本気だったのではないかと思います。
「紅葉」も同様です。英語ではfallen leaves(落ち葉)と訳します。もしかしたら西欧では気候の関係で日本の歌「もみじ」の歌詞のようにはならず、いきなり「枯葉」になってしまうのかもしれませんね。だからこそ、インバウンド客が日本の「紅葉」に感嘆の声をあげるのではないかと思います。(ファクトチェックできていません)
もしかしたら、英訳するときも「セミ」「モミジ」とするべきなのかもしれません。
ここで重要なのは私たちが『わかっている』と考えていることも実はそうではない可能性もあるということなのです。現代では、デジタル世界真っ只中で情報が溢れています。だからこそわかったつもりでいる。すべてを理解したうえで政治・経済等の綱引きをしていますが、私たちの「思い込み」で「衝突」が起こっていることもあるのではないかと危惧します。戦争を始める前に、紛争を起こす前に、落ち着いてもう一度自分の『わかっている』を検証すべきだと考えます。
本日の「おじさんの戯言」でした。