本日は「青春」のお話。
青春とは何だ…永遠のテーマですね。大学時代、英文学特講担当の高島誠先生が授業でいきなりこの話を始めました。ある学生が先生に「青春とは何ですか」と質問したそうです。それに対して何と答えたか。「富士登山」みたいなものだ...と答えたそうです。???まるで、落語の謎かけか禅問答のような答えです。その心は?登っている最中は苦しい、なぜかったるいことをやっているのだ...それが青春真っ最中ということだ、わからない状態のままただひたすら頂上に向かっている、それが青春...だから「今の君にわかるはずはない」→(そういうことに悩み苦しむことこそ、青春だ)。一方、「青春時代を終えた人間(自分を含め大人)は苦しい登山をすることなく「富士山」を遠くから眺め、「美しい」と声高に叫ぶ」→(とても楽だけれど悩まないから成長が少ない、寂しい大人だ。だから青春を終えた時に君にもわかる)。当時、変に納得したものです。
高校の教師をしていると、以前のブログでも書きましたが、常に3年ごとに生徒は入れ替わる、それに対し教師は継続して教壇に立ち続けるので常に若い気でいる...定年を迎えた時でさえ、えっ!?俺ってそんな年?と思ってしまったものです。
ただ、高島先生の言葉が実感できる時がやってきます。学校では学期末などに生徒間の親睦もかねてレクリエーションを兼ねて球技大会のような行事があります。早朝や放課後、また昼休みに生徒たちは練習します。「そ~れっ!」などと言いながらボールを必死に追いかけます。また、文化祭などの時には特設ステージでAKB48の真似をしながら一生懸命踊ったりするのです。その姿を見て「いいな、若いっていいな」と心底思いました。別にお金になるわけでもない...得することもない...ただ楽しいからやっている...その姿に感動したのです。まさに、富士山を遠くから眺め「美しい」と声高に叫んだ状態です。こういうことなんだな、「青春と何か」がわかることとは...同時に、何か大切なものを置き忘れてしまったようなそんな寂しさも感じました。もう年なんだ...
そういえば、教職についた後も若い頃は「得する」とか「損する」とかではなく自分なりの「正義」や「信念」を無理にでも貫こうとしていた気がします。負けるのがわかっていても、とにかく自分を曲げない...そんな生き方をしていたような気がします。それが、いつの間にか、世間の波に揉まれ、世間の垢にまみれ、清濁あわせ飲むような汚い大人に成長(堕落?)していく...別に単に妥協を重ねてきたわけではない...最終的な目標を達成するためには猪突猛進ではいけないんだ...と心の中で言い訳しても100%本当でないことは私が一番知っています。ほんの教師の駆け出しのころ、大先輩(いまから思えば私よりずっと若い50歳くらい)の先生に酒の席で自分の思いをよくぶつけました。今から考えればよく我慢して付き合ってくれたな...と思います。「そうだね」と全部受け止めてくれながらも「ここは意地を張っても先に進まないだろ」といってアドバイスをくれました。「青春をしてた」私に、「青春を卒業した」先輩が指導してくれたんだな...
いつの間にか、そんな私も大人になりました。さらに定年退職も迎え、極端に言えばアルバイトである非常勤講師の立場になりました。損得もシガラミも全くない立場です。その立場になって気が付いたんです。実は知らないうちにもう一つの「富士登山」をしていたことを。現職の教員で悩み苦しんでもがいていたもう一つの「富士山」を。「青春とは何だ!」の富士山ではなく、「教師って何だ!」の富士山です。
私のような人間にも助言を求めてくれる人はいます。色々ありましたが、「青春とは何だ!」の富士山と「教師って何だ!」の富士山と2つの富士山を必死で登った自信だけはあります。3つ目の富士山が遠くから眺められるのは死ぬ時だと思っています。ただ現在は損得で生きる必要のない立場になりました。高校生と同じ立場に戻れたのです。今度こそ、彼らと同じように「楽しいから頑張る」世界を味わいつつ、自分の経験を下の世代にアドバイスしていける3つ目の「富士登山」に挑戦していこうと思っています。
私の机の横には私の押しの戦国武将「真田幸村」のブロンズ像が槍を持って座っています。「お前にできるものなら、やってみろ!」と言いたげに...もう片方には私の押しの仏像広隆寺の「弥勒菩薩像」のブロンズ像が鎮座しています。「人間何事も中庸が大切、肩の力を抜け」と説教しながら...
文中に登場する高島先生については以前のブログで紹介させていただきました。