本日は昔からある「道徳」についてのお話。以前にも、この話題については投稿しました。繰り返しになってしまうかもしれませんが、お付き合いください😓
次は『読売新聞 令和7年9/10付』の記事です。

皆さんからお叱りをいただくことを承知で書かせていただきます。
世の中あらゆる面で乱れています。子どもだけではありません。大人も同様です。「道徳心」の欠如からくる...だから教科化する。国で教える...間違っていません。大賛成です。また、その「道徳」を学ぶために対話的な手法をとる、それも有効だと思います。でも、教科化して10年、「道徳心」は向上したのでしょうか?上記も記事でも「授業の組み立てに苦労」とありますが、なぜこんな状況に陥ってしまっているのでしょう?学校から「いじめ」はなくなっていません。かえって陰湿化し、下手すると学校側も(見て見ぬふりをすることで)加担していることもあります。闇バイト(薄々気づいているのに)に手を染める若者や、平気で「性」を売り物にする「援助交際」と言う名のの「売春・買春」、SNSの匿名性をいいことに人権無視の情報発信、毎日のように報道される教師による不祥事....先日、インターネットを見ていたら、私の世代からすると目を疑うような素人の娘さんが「ノーブラ散歩」と称し、世の中のスケベ心を煽っている、またそこまで露骨ではないけれど、明らかにそれを狙った微妙なラインの女子ソロキャンプの動画の垂れ流し(私は「あざとい」と感じます)...「高齢者」の私はついていけません。「道徳」というのは、子どもの問題だけではないんです。「道徳心」を身に付けず、大人になったら、自由に不道徳な行動をとる人間が増えるだけですから。






その原因は人の道を説く「道徳」以前にあるのだと思います。「道徳」は人としての善悪の規準がしっかりしていて成立するものです。その規準がしっかりしてないから、「道徳」が成立しないのです。英語の基礎力がないのに、「コミュニカティブな英語」を教えるのと同じです。(失礼、関係ない話でしたね)
「道徳」の規準とは?間違いなく「しつけ」です。理屈ではないんです。「話し合う」ものではありません。それぞれの社会にある善悪に関する不文律のルールです。会津藩の「什の掟」ではありませんが、「ならぬことはならぬものです」のようなモノです。私は、「年寄り」です。「高齢者」です。戦後生まれとはいえ、昔の価値観が身体全体にしみこんでいるといってよいと思います。小学校時代国旗に向かって敬礼することは普通でしたし、小学6年生になると「週番」とって赤い腕章をつけて、校内を見回り、下級生が危ないことをしてたりすると注意して回ったものです。それがいいとは言いません。ただ、日本人としての社会のルールとして基本的が「しつけ」は絶対に必要だと思うのです。「殺してはいけない」とか「盗んではいけない」は犯罪行為ですので「しつけ」の範疇ではありません。「しつけ」とは、「個」としての自覚を持つ以前の「習慣」です。私が教師をしていたころの生徒への「しつけ」はまずは、「ありがとう」「ごめんなさい」が言えること、「いじめはしない」「他人に迷惑はかけない」「何があっても命は一番」でした。私は、家庭と学校がこれだけをしっかり徹底できれば、そのあとにくる「道徳教育」は真の輝きをもつ「道徳心」として養われるのではないかと思います。
一番、結びつきの強い「社会」は「家庭」です。日本の場合は次に「学校」でしょう。その2つの「社会」でもう一度「しつけ」について考えてみませんか?文部科学省の考える「道徳教育」はその次のステップだと思います。
「しつけ」の観点は国によって違います。文化が違うから当然です。一般的に「しつけ」が厳しいと言われているフランスですが、「大人の会話に割り込まない」「待つことを学ぶ(要求はすぐに満たされるのではなく、「少し待ちなさい」と教えられる)」「子どもは子ども、大人は大人(「子ども中心」ではなく「家庭の一員として秩序を守る)」「きちんと挨拶をする」をあげています。日本では江戸時代の名残か儒教的な色彩が強い「しつけ」となるでしょう。だから保守的だ、古臭いではありません。だからこそ、日本人独特の「義理や人情」「おもてなしの心」「礼儀正しさ」「謙虚」といった世界でも評価される美徳が生まれるのです。
年よりは引っ込んでろ、おめーは国粋主義者か、この「老害」め....と言われてしまうのを承知で「おじさんの戯言」として書かせていただきました😌
