本日は、現在の教育行政の方向性についてのお話。
まずは、下の記事を見てください。

現在では、主流となりつつある「探究学習」についての弊害です。「探究学習」の大切さを十分現場の人間として理解している前提で聞いてください。
私は、教師として40年以上勤め、「探究学習」の草分け的時期からかかわってきました。「探究学習」の狙いはどこなのか...成果なのか...それとも生徒に論理的思考(仮説➡探究・研究➡結論)の習慣を身につけさせたいのか...好奇心に火をつけることなのか...きっとすべてだ、という回答が返ってきそうですが、どこまで本気なのか、理解できません。カリキュラム的には『総合的学習の時間』となりますが、実体はとらえどころが明確ではない「焦点ぼけ」の時間になっていないでしょうか。
基礎科目の「基本のキ」さえも満足に教授できない日本の教育で真の「探究学習」が可能でしょうか?基本的学力を身に付けていなくてもエスカレータのように進級させ、出席時数が足りなければ「生徒のため」といって「特別な配慮」をもって対応..高校でも同様、一定の能力、努力が足りないと進級を許可しなければ、教育委員会から指導が入る...その結果Fラン大学が世の中にあふれ、理系の大学で四則演算...英文科で英文法の補習...
この状態で全学生が年間何単位も割いて「探究学習」ですか?私は、日本の中高生を馬鹿にしているわけではありません。学問にはステップが必要だと考えているのです。ですから、学校は関係ありません。能力があれば、小学生でも大学で学べばいいのです。それまでは、「夏休みの自由研究」で十分ではないでしょうか。自分の身の丈にあった、教員の手を借りなくてもできる範囲のことから研究する...私はそれで充分だと思います。以前は「夏休みの自由研究」は小学生がやるものでした。それを中学・高校とやらせればいいのです。そうすれば、小学生の時より、当然、論理的になり「課題研究」らしきものになると思います。そして本格的な「課題研究」へ進んでいくのです。また、それだからこそ、「専門家の知見」が生きるのです。
本音でいえば、将来に生かせる「探究学習」は探究する分野で高校卒業レベルの基礎力があって初めて成立するものです。その上、指導できる教員がどれだけいるのでしょう。「探究分野」は多岐にわたり、その「仮説」自体の設定の可否、それに必要な時間、そういった判断もつかない...つまり指導できないんです。「探究学習」「課題研究」は奥が深いんです。正直言って、よほど優秀な教員しか指導が可能と思えません。何しろ、ゼミの教員と同じで、学習・研究の節目で適切な助言をあげなくてはいけないのですから。しかも専門分野の。それでなくても、「いじめ」「暴力」「学級崩壊」「モンペ」...事なかれ主義の学校の体制...事務処理...このような状況で指導しろ...無謀です。当たり前の教科でさえ、教えるのに四苦八苦の状態なのに。「探究学習」の時間を増やすために、一般教科の時間数を減らす...最後のとどめは教科の枠組みまで変えようとする学習指導要領の改定...結局、「外部の専門家に当たって砕けろ...」も必要、社会勉強のうち...と外部へ任す。物理の基礎もないまま、「相対性理論」を考えたりする...「当たられた」研究者はたまったものではありません。
ざっくりとした感覚では、上部10%の高校生対象で良いと考えます。もちろん、ある分野だけずば抜けた才能があれば、小学生でも良い...日本の全学生に一律に課すのは酷です。「研究した気になる」「専門の勉強をした気になる」...ある意味では危険です。文科省はそういった方向で国全体の教育行政を行ったという表向きのポーズをとっているにすぎません。
文科省のような国の機関は、一度方向性を決めると絶対変えません。「デジタル教科書の導入」を堅持するように。でも、「教育は百年の計」といいます。目先の利益や見てくれでは教育はできないのです。遅すぎることはありません。現実を見て、実態にあわせた長い目でみた教育の策定をお願いしたいです。
※「長い目で見た教育が探究学習なのだ」と反論されてしまいそうですが。
